# いのなかのかわずたいかいをしらず
い
井の中の蛙大海を知らず

種類:その他格言
同じカエル一族なのに、赤烏帽子の蛙は3年間ゼロ件、こちらはPIXTAでかなり売れた。今は無料で大盤振る舞い中。人の手の入らない井戸には、実は独自の生態系がある——広い海に出る貪欲さと、狭い井戸を深く掘る貪欲さについて。
前回の建て替えで、白状した話がある。 「亭主の好きな赤烏帽子」の蛙は、 公開から3年、PIXTAで一度も売れなかった。
一方、今回の主役——「井の中の蛙大海を知らず」は、 同じカエル一族でありながら、まったく別の道を歩んだ。 こちらは、かなり売れたのである。
理由は明快だ。 この絵には、赤烏帽子のような「古典の教養」が要らない。 井戸に落ちた蛙が、狭い世界だけを知っている—— 見た瞬間に意味が伝わる、わが連載の必勝パターンそのものである。
そして現在、この売れっ子は、当サイトで無料配布中だ。 稼いでくれた恩人を、真っ先に無料開放する。 大盤振る舞いにもほどがあるが、 出し惜しみをやめると決めた町の、これが方針である。
さて、このことわざの絵を描く上で、 今どき、なかなかの難題がある。
井戸も、蛙も、もう身近にいない。
水道網の整備で、開放型の井戸はほぼ姿を消した。 仮に残っていても、子供や酔っ払いが落ちる危険のある井戸を、 今の時代に野放しにはできない。
蛙のほうも同様である。 私は東京を離れ、周りに田畑の残る地方都市に住んでいるが、 それでも蛙を見かけた記憶が、ほとんどない。 湿地は減り、水は変わり、彼らの居場所は静かに縮んでいる。
つまり、「井の中の蛙」を知らない子供たちに、 「井の中の蛙」を説明しなければならないという、 なんとも入れ子構造のことわざになりつつあるのだ。
この状況を踏まえて、絵を考えた。
今どき蛙が住み着くような井戸は、 過疎の村にでも赴いて、放置されたものを探すしかない。 掃除もされず、堆積物で水位も下がっているだろう。
だが、そこでふと思いついた。
人の手が入らないからこそ、 その井戸の中だけで、独自の生態系ができあがっているのではないか。
苔が生え、水面に浮草が漂い、 蛙は蛙なりに、その世界で不自由なく暮らしている。 絵の中の蛙が、存外まぬけに笑っていないのは、そのためだ。 彼は、閉じ込められているのではない。 その井戸の、主(ぬし)なのである。
三年前の私見に、私はこう書いていた。
「歳とともに、新しいことを覚える速度が落ちている。 使い慣れた知識や技能ばかりに手が伸びる。 これはまさに井の中の蛙だ。貪欲さを取り戻さなければ」
あの頃の危機感は、今も嘘ではない。 だが、この一年ほどで、少し付け加えたいことができた。
私は今、151a.xyzという、 自分だけの小さな井戸を掘って、その中で暮らしている。 外の大海(PIXTAという広い市場)から見れば、 これもまた、ある種の「井の中」なのかもしれない。
けれど、絵の中の井戸を見ていて思う。 井戸の中でも、生態系は育つ。 苔は苔なりに、蛙は蛙なりに、 狭いなりの深さを掘り進めることはできる。
大海を知らないことは、確かに弱点だ。 だが、井戸の水質と生態系にとことん詳しくなることも、 それはそれで、一つの生き方ではないだろうか。
貪欲さを取り戻さねば、という三年前の決意は、まだ有効である。 ただし今なら、こう付け加えたい。
広い海に出る貪欲さと、 狭い井戸を深く掘る貪欲さは、 たぶん、両方とも本物である。
大盤振る舞いで無料開放されたこの蛙は、 これから多くの井戸——もとい、多くの記事やサイトの中で、 新しい生態系の一員になっていくのだろう。
売れっ子だった蛙にも、まだまだ働いてもらう。 井戸の外の大海を知らなくても、 働き者であることに、変わりはないのだから。
井の中の蛙大海を知らず|売れっ子だった蛙の、大盤振る舞い

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