# いっすんさきはやみ
い
一寸先は闇

種類:京都かるた
「闇」——要するに何も無いこと。これをどう描くか。三年前「逃げ」と思った街灯の絵は、実は唯一の正解だった。一寸先が闇なら、一寸手前までは灯りがある。闇に絵の居場所を消された男の返答と、天文ファンによる闇の弁護。
いろはカルタの「い」は、土地によって札が違う。 江戸は「犬も歩けば棒に当たる」。 大阪は「一を聞いて十を知る」。 そして京都が、今回の「一寸先は闇」である。
それにしても、いろはの初手から、 「知る」だの「闇」だのと、概念の難題が続く。
当サイトの読者にはお馴染みの問題だ。 「願う」は絵にならなかった。「備え」は日傘になった。 「知る」は案内板でしのいだ。 そして今回の「闇」——要するに、何も無いことである。
無いものを、描け。 禅問答のような注文だが、これがカルタ絵師の仕事なのだ。
私が出した答えは、 夜の路地、一本の街灯、その光の輪の中に立つ男の後ろ姿——だった。
公開当時は「逃げの表現」だと思っていた。 闇そのものを描けないから、暗がりへ進む男でお茶を濁した、と。
三年経って見直して、考えが変わった。 これは逃げではない。闇の唯一の描き方である。
考えてみてほしい。 「一寸先は闇」ということは、裏を返せば—— 一寸手前までは、灯りがあるということなのだ。
闇は描けない。無いものだから。 描けるのは、闇が始まる一寸手前の、最後の明かりだけ。 あの絵の男が立っているのは、まさにその場所である。
ことわざは「先が見えない」と脅すが、 同じ口で「足元は見えている」とも言っている。 三年前の私は、自分の絵の意味を、半分しか分かっていなかった。
このことわざを、私は講釈ではなく、実地で学んでいる。
長年、専属クリエイターとして順調に絵を納めていた先で、 ある日突然、AIをめぐる方針が変わり、 私の絵の居場所が、一寸先で消えた。
新婚旅行では、4月に台風は「めったに来ない」はずの南の島で、 一週間、台風に居座られた。 「めったに」の残りのわずかな確率は、 どういうわけか、いつも私に当たる。
現状が順調でも、先は読めない。 ことわざの言う通りである。 準備せよ、柔軟であれ——三年前の私は、そう書いて締めていた。
正論だが、つまらない。 実際に闇に出くわした人間として、もう少し実のある報告をしたい。
一寸先が闇だと思い知った男が、その後何をしたか。
街灯を立てたのである。
行き先の見えなくなった15,000枚の絵に、一枚ずつ住所を作り、 名簿を編み、物語を書き、無料の配布所を建てた。 この連載で「街灯を立てる」と呼んできた作業の正体は、 つまり、あの闇への返答だった。
一寸先が闇なら、一寸ごとに灯りを立てればいい。 立てた場所までは、確実に明るくなる。 その先はまた闇だが、そこにまた一本立てる。
未来は照らせない。 だが、歩いてきた道と、次の一歩なら照らせる。 あの絵の街灯は、そういう灯りである。
最後に、元・天文同好会の男として、 闇のために一言、弁護しておきたい。
闇がなければ、星は見えない。
都会の夜は明るすぎて、肉眼で見える星は数十個だという。 一寸先どころか、地平の果てまで照らされた街では、 闇が絶滅した代わりに、天の川も絶滅した。
一寸先の闇は、たしかに何も見せてくれない。 だがあの暗がりは、ハレー彗星も、流星群も、織姫も彦星も、 全部そこに隠し持っているのである。
三年前の私見に、私はこう書いた。
「似た表現に『お先真っ暗』があるが、私はいつもこちらの状態」
これを訂正——ではなく、本日、開き直ることにした。
お先真っ暗、結構。 プラネタリウムだって、開演前は真っ暗ではないか。 暗いところにしか、星は出ないのだ。
街灯の下の男は、今日も次の一寸へ歩いていく。 先は見えないが、足元は明るい。 カルタ絵師には、それで十分である。
一寸先は闇|闇は描けない、灯りなら描ける

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