# いぬもあるけばぼうにあたる
い
犬も歩けば棒に当たる

種類:江戸かるた
いろはカルタの最初の札「犬も歩けば棒に当たる」。なぜ昔のカルタの犬は棒に自分からぶつかっていたのか。意味に忠実な絵と掲載できる絵のジレンマ、災難から幸運へ変わった解釈——そして棒を振った少年の、動かぬ実証。
「い」——犬も歩けば棒に当たる。
いろはカルタの最初の一枚であり、 このサイトが「格言とことわざをイラストで」と看板を掲げた、 記念すべき創業の一枚でもある。
その最初の札が、よりによって、 動物虐待めいた嫌な感じの絵になってしまった。
言い訳をさせてほしい。 これには、カルタ絵の歴史をめぐる、少々ややこしい事情があるのだ。
私が幼少期の正月に遊んだ子供向けカルタには、 妙な絵が描かれていた。
犬が、立っている棒に、勝手にぶつかっているのである。
子供心にも思った。 「そんなおバカな犬、いるわけないでしょ!」
犬は人間よりよほど敏捷である。 突っ立っているだけの棒に自分からぶつかる犬がいたら、 それは獣医に相談すべき事態だ。
長年の疑問が解けたのは、大人になってからである。 本サイトを作るきっかけをくれた滑川氏の本に、古いカルタ絵が載っていた。 そこに描かれていたのは——人が犬を、棒で叩いている絵だった。
そう。ことわざの「棒」とは、もともと人が振るう棒なのだ。 うろちょろ歩き回る犬は、機嫌の悪い人間の棒に出くわす。 「出歩けば、とんだ災難に遭うぞ」という戒めである。
ところが時代が下り、動物愛護の観点から、 叩く人間を絵から消した。 棒だけが残された結果、犬は自主的にぶつかるしかなくなった。
あのおバカ犬は、犬がおバカなのではない。 大人たちの優しさが生んだ、苦肉の発明だったのである。
さて、このサイトの絵を描くにあたって、私は方針を立てた。 自主的にぶつかるおバカ犬ではなく、意図の通る絵にしたい。
そこで一枚目。 ステッキを振りかざす人と、逃げる犬——本来の意味に忠実な絵である。 教育的には好ましくないかもしれないが、 「うろちょろすると災難に遭う」というメッセージは、正しく伝わる。
念のため、二枚目も描いてみた。 女の子が棒を手に、嬉しそうに尻尾を振る飼い犬と遊んでいる、 色鉛筆の微笑ましい一枚である。
同じ「犬と棒」なのに、こちらは見ていて心が和む。 和むのだが——ことわざの意味が、一切伝わってこない。
意味に忠実な絵は、掲載をためらう絵になり、 掲載したい絵は、意味を伝えない絵になる。
このジレンマ、当サイトの読者には見覚えがあるはずだ。 雨を描かないと日傘になってしまった「濡れぬ先の傘」と、同じ病である。 ことわざの絵とは、つくづく、一筋縄ではいかない。
もう一つ、ややこしい事情がある。 このことわざ、意味そのものが変わってきているのだ。
本来は「出歩けば災難に遭う」という戒め。 ところが最近は、 「まずは行動を起こせば、思わぬ幸運に当たる」という 正反対の励ましとして使われることが多い。
災難の棒が、幸運の棒に化けたのである。
紫陽花が土の酸性度で色を変えるように、 ことわざも、時代という土壌で意味の色を変える。 どちらの色も、その時代の「誠」なのだろう。
ただ、絵描きは困る。 叩く絵は旧義には忠実だが、新義にはまるでそぐわない。 最初の一枚から、私は二百年分の解釈の間で立ち往生しているのだ。
最後に、この件について、私には忘れがたい実体験がある。
小学生の頃、私が通ると必ず吠える近所の飼い犬がいた。 毎日毎日、吠えられる。 ある日、あまりに腹が立ったので、 近くにあった棒を拾い、威嚇した。
(叩いていませんよ。 振り上げただけです。念のため。)
すると、それ以来、その犬は私が通っても吠えるどころか、 そっと身を隠すようになった。 犬というのは、本当に学習能力が高い。
——そして今、このページを書きながら気づいてしまった。
あの日の事件は、このことわざの新旧両方の意味を、 一度に実証していたのではないか。
犬の側から見れば、 「うろちょろ吠えていたら、棒という災難に出くわした」。 まさしく旧義である。
少年の側から見れば、 「思い切って行動を起こしたら、事態が好転した」。 こちらは見事に、新義である。
一本の棒が、二百年分の解釈を、同時に証明した。 ことわざの現場とは、案外こういうものなのかもしれない。
最初の札から、この騒ぎである。
カルタ絵の歴史、動物愛護、意味の変遷、そして少年の棒。 「い」の一枚に、これだけの事情が詰まっている。
いろは四十七文字、先は長い。 だが、うろちょろ歩き回れば、棒に当たる。 ——もちろん、幸運のほうの棒に、である。
そう信じて、次の札へ進むことにする。
犬も歩けば棒に当たる|最初の一枚と、棒を振った少年


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