# ろんごよみのろんごしらず
ろ
論語読みの論語知らず

種類:京都かるた
立派なことを言うくせに行いが伴わない——このことわざの最前線に立つのは、実は200本の格言を解説する当サイトの主である。傘を説いて傘を忘れる男の防御策は、論語自体に書いてあった。「私見」欄の正体は、自首コーナーである。
論語読みの論語知らず——京都かるたの一枚である。
書物から知識は得ても、それを実践できない人。 立派なことを言うくせに、行いが伴わない人。 昔から、こういう人がいたのだ。
ところで当カルタ解説、孔子先生はこれが二度目の登場である。 大阪の「い」——一を聞いて十を知る——も、出典は論語だった。
前回は「論語を書いた側」の教室の話。 今回は「論語を読む側」の、耳の痛い話である。
まず、絵の弁明をさせてほしい。
「論語読み」を現代に置き換えるなら、誰か。 考えた末、恐れ多くも小学校の先生に例えることにした。
教壇に立ち、煙草をくわえたまま授業をする先生。 道徳を教えるその口に、紫煙。 子供たちの、あの何とも言えない顔——
「教える人が、実践しない」という、 このことわざの核心を一枚で伝えるには、 これ以上の構図が思いつかなかったのだ。
高い志と難関を突破して教壇に立つ現実の先生方には、 まったくもって濡れ衣である。伏してお詫びする。
……ただ、一つだけ付け加えると。 私の世代は、覚えているのだ。 昭和の職員室が、紫煙で霞んでいたことを。 この絵、今の読者には風刺に見えるだろうが、 あの時代を知る者には、半分は記録なのである。
このことわざを思うとき、私の頭に浮かぶのは、 かつて勤めていた会社の面々である。
自分は実践していないのに、他人への説教は一人前。 会議では正論の砲台、現場では姿が見えない。 そういう人々との葛藤が、毎日のようにあった。
観察していて気づいた法則がある。 説教の声が大きい人ほど、実践の足音は小さい。
論語をよく読む人ほど論語知らずになりやすいのは、 たぶん、読むことで「分かった気」が完成してしまうからだ。 知識が実践の代わりに、腹を満たしてしまうのである。
——と、ここまで威勢よく他人を斬ってきたが、 三年前の私見に、私はこう書き添えていた。
「私自身も、他人からはそのように見られていた可能性がある」
三年経って、この一文の恐ろしさが増している。 なぜなら私は今、200本のことわざを解説するサイトを 運営しているからだ。
考えてもみてほしい。 「濡れぬ先の傘」の大切さを説いた男は、その傘を置き忘れる。 観天望気を得々と解説した男は、気象予報士を断念した。 「一寸先は闇」と書いた翌週も、のんきに沖縄の方角を向いている。
格言を一本解説するたびに、 「論語読みの論語知らず」になる危険が、一回ずつ増える。 このサイトの主は、ことわざ界でもっとも危険な職業に就いているのだ。
では、どうすればいいのか。
調べていて、笑ってしまった。 答えが、論語そのものに書いてあったのである。
「知らざるを知らずと為す、これ知るなり」—— 知らないことを、知らないと認める。それこそが知である。
つまり、実践できていないことを、 できていないと白状すること。 論語知らずを自覚した瞬間だけは、 人は論語読みの論語知らずでは、なくなるのだ。
思えば当サイトの「私見」欄は、 傘を忘れ、勉強を断念し、子供に嫌われ——と、 論語知らずの自首コーナーとして機能してきた。
知らず知らずのうちに、防御策を実践していたらしい。 もっとも「知らず知らずのうちに」という時点で、 やはり孔子先生には、遠く及ばないのだが。
このことわざの一番の効能は、 他人を斬ることではなく、自分の手元を照らすことだと思う。
格言を読んだら、説教の前に、まず白状。 当サイトは今後も、この方針で参ります。
なお、本日も傘を——いや、これ以上の自首は、次の札に取っておく。
論語読みの論語知らず|格言サイトの主が、一番危ない

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