# かえるのつらにみず
か
蛙のつらに水

種類:京都かるた
AI作画で愛情は薄いが、PIXTAでは数回売れていた——カエル三部作の最後。子供の頃、実際にガマガエルへ実験して分かった真実:「蛙のつらに水」は嘘である。攻撃する側の言い分でしかないこのことわざへの異議申し立て。
カエル三部作、最後の一匹である。
一匹目、「亭主の好きな赤烏帽子」は、個人的にかなり気に入っているのに、 3年間、PIXTAで一度も売れなかった。
二匹目、「井の中の蛙大海を知らず」は、逆にかなり売れて、 今は無料開放という大盤振る舞いを受けている。
三匹目、今回の「蛙のつらに水」は——正直に言う。
AI作画で、あまり愛情がない。
それでもPIXTAでは、数回、売れていた。 愛情の量と売上は、比例しないらしい。 三部作の最後にふさわしい、身も蓋もない結論である。
このことわざ、私には検証済みの実体験がある。
子供の頃、家の近くの沼には、 嫌になるほどたくさんのガマガエルがいた。
そこで私は——白状する—— おしっこをかけて遊んでいた。
「蛙のつらに小便」と、子供心にそう覚えていた。 今の正式な言い回しとは少し違うが、 まあ、子供の記憶などその程度のものである。
そして、ここからが重要な報告なのだが。
蛙たちは、まったく喜んでいなかった。 一目散に、池へ逃げていった。
つまり私は、図らずも、 このことわざを実地で検証した少年だったことになる。
結果:「蛙のつらに水」は、嘘である。
以前、「蜘蛛の巣に朝露かかれば晴れ」を検証したとき、 理屈を追いかけたら、あちらは真だった。 昔の人の観察眼に、恐れ入るしかなかった。
今回は逆である。 「蛙のつらに水」は、少なくとも私の沼では、偽だった。 蛙は、水をかけられて喜ぶどころか、全力で逃げていた。 当たり前である。生き物なのだから。
思うに、このことわざを作った人は、 蛙に直接おしっこをかけたことなど、なかったのだろう。 やっていれば、あの逃げっぷりを見て、 別の表現を選んだはずだ。
そして、ここに気づいたことが、 今回のエッセイで一番言いたいことである。
「蛙のつらに水」は、水をかける側の視点で作られた言葉だ。 「何を言われても、涼しい顔をしていられる」—— それは、あくまで攻撃する側から見た景色にすぎない。
かけられた蛙は、逃げていた。平気なふりすら、していなかった。 本当は、みんな逃げたいのだ。
いじめでも、パワハラでも、SNSの心無いコメントでも、 受け手は「蛙のつらに水」を装うしかない場面が、確かにある。 平気に見えているとしたら、それは平気なのではなく、 逃げ場がないから、そう見せているだけかもしれない。
沼の蛙たちのように、逃げられるなら、逃げたほうがいい。 逃げる先がないときだけ、仕方なく、つらの水を装えばいい。 ——順番を間違えてはいけない、と思う。
メインの絵は、水を浴びて笑っているような表情の蛙を、 写実的に描いたものである。
断っておくが、蛙は笑わない。 これは写実ではなく、ことわざに合わせた創作だ。
思えばこの絵は、最初から矛盾を抱えていた。 「涼しい顔をしている」というイメージに寄せるために、 実際には逃げ出す生き物を、無理やり笑わせている。
三部作の一匹目、二匹目とは違って、 この蛙には、そもそも作るときから、 本物の観察眼が入り込む余地が少なかった。 愛情が薄いと感じるのは、たぶん、そのせいなのだと思う。
三部作を終えて、あらためて思う。
情熱を注いだのに売れなかった蛙。 愛情は薄かったが、それなりに働いた蛙。 そして、実は誰よりも大海(実売)を知っていた蛙。
——皮肉なことに、「井の中の蛙大海を知らず」を地で行っていたのは、 このカエルたちを描いていた、私自身だったかもしれない。 どの蛙が働き、どの蛙が働かないか、 描いている間は、まったく読めていなかったのだから。
蛙のつらに水

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